2017年10月7日土曜日

出会っても好きなれないからまた機会を求める、何故ダメなのかを考えましょう

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池田晶子

モノによって満たされるココロもあれば、モノによらずに満たされるココロもある。
いずれにせよ、満たされて幸せだったり、満たされなくて不幸だったりすることが出来るのは、モノのほうではなくて、いつでもココロなのだ。
そしてこういったモノに対するココロの絶対優位を自覚しているココロこそが、この世のあらゆる物事を、本当に楽しむことが出来るのだろう。

覚悟はあるなら、人生のたいていのことは、なんとかなるのではないでしょうか。
「なんとかなる」というのは、決断を誤らない、失敗をしないということでは決してない。
決断が決断である以上、それが誤る可能性、失敗する可能性は必ずあるわけですが、それらのリスクをも引き受ける覚悟で決断する、
そういう心の構えがあるなら、結果は実は二の次ではないかということです。

悲観も楽観もせずにいるのがいいのです。
「いい」というのは「望みがかなう」ということではなくて、そういう望みをもたないことが結局一番「いい」ということ。
なぜなら、わかりっこない先のことを、あれこれ思い煩うから、人間は不幸になっている。
でも、いま幸福にならずに、いつ幸福になるつもりなんですか。

死ぬとか病むとか老いるとか、当たり前のことを否定として捉えるから人は苦しむことになるのでしょう。
やはり、当たり前を当たり前として捉え、なおそれを楽しむという構えが、ひょっとしたら人生の極意なのかもしれません。

『人間は常に客観的中立的に判断し、生きるべきだと言う人はいるかもしれません。
しかし、そのように客観性を求め主観性を排すという態度自体が、その人の好み以外ではありえない。
「情動」というから、それは人間と動物に限られるように聞こえますが、どうもそれだけではなさそうだ。
「好みのオス」「好みのメス」という原始的なレベルをさらに遡ると、原子レベルにすらこの「情動」は働いているのではないか。

2017年2月25日土曜日

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『ブッダのことば』岩波文庫 中村元訳

544 尊い方よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。神々を含めた全世界のうちで、あなたに比べられる人はおりません。
545 あなたは覚った人です。あなたは師です。あなたは悪魔の征服者です、賢者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから[彼岸に]渡りおわり、またこの人々を渡すのです。
546 あなたは生存の要因を超越し、諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます、あなたは獅子です。何ものにもとらわれず、恐れおののきを捨てておられます。
547 麗しい百蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。サビヤは師を礼拝します。」
 そこで、遍歴の行者サビヤは尊き師(ブッダ)の両足に頭をつけて礼して、言った、──「すばらしいことです、譬えば倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさま種々のしかたで真理を明らかにされました。ここでわたくしはゴータマ(ブッダ)さまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。わたくしは師のもとで出家したいのです。完全な戒律を受けたいのです。」  (師はいわれた)、「サビヤよ。かって異説の徒であった者が、この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、完全な戒律を受けようと望むならば、かれは四カ月の間別に住む。四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧はかれを出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせる。しかしこの場合は、人によって(期間の)差異のあることが認められる。」  「尊いお方さま。もしもかつて異説の徒であった者が、この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、完全な戒律を受けようと望むならば、かれは四カ月の間別に住み、四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧がかれを出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせるのであるならば、わたくしは(四カ月ではなくて)、四年間別に住みましょう。そうして四年たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧はわたくしを出家させて、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせてください。」  さて遍歴の行者サビヤは(直ちに)師のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、この長者サビヤは独りで他人から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、やがて無上の清らかな行いの究極──諸々の立派に人々はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──を現世においてみずからさとり、証し、具現して日を送った。 「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。